Thursday, September 5, 2013

第一章 なぜ「自分思い(セルフコンパッション)」なのか

第一節
「自分思い(セルフコンパッション)」と出会う


「私は、私が、私の」と自意識を強めることと、自分を大切にすることは別。自分を大切にするということは、逆境から立ち直る力、苦しい時に支えてくれる力、そして内面を理解する力を身につけることにつながる。そしてそれらは生きることの当たり前の一部なのだ。
- Sharon Salzberg, The Force of Kindness



 競争の激しい現代社会で、心の底から自分自身に満足している人はどれほどいるだろうか。満足感自体、刹那的な感情ともいえる。自分が価値ある存在だと感じるには「平均以上でどこか特別」であることが必要だからだ。そう感じられないと逆に何か問題があるのだと考えてしまう。大学入学直後のある日、大切なパーティの準備に何時間も費やした挙句、ヘアスタイル、メーク、そして洋服がいかに全然ダメか、私のボーイフレンドに愚痴をこぼし続けたことがあった。「そんなことないよ。問題ないよ」とせっかく言ってくれた彼に対し、私は「問題ない?そういうことじゃなくて。そりゃ問題ないに越したことないけど・・」とむくれたままだった。
 特別でありたい、と思うことは普通だ。ただ全ての人が同時に平均以上であるということは物理的にありえないのだ。誰でも他人に勝るものは何かあるはず。ところが更に頭が良く、よりキレイで、もっと成功している人はいるものだ。通常、この現実に対して私たちはどのように適応しているだろうか?あまり上手にできているとは思えない。自信を得たいがために自尊心を膨らませ、他人を上から目線で見ることで満足を得ようとしがちだ。でもそうした姿勢はいずれ代償を払うことになる。自らの可能性を大幅に制限してしまうことになるからだ。


歪められた実像
 自分が満足するためには他人に対する優越感が必要だとしたら、他人のことであれ自分のことであれ、本当の姿は見えなくなってしまう。例えば私が仕事でストレスの多い一日を終えた後、夕方帰宅した夫に対してイライラしたり、機嫌が悪かったりしたとする(あくまでも仮定の話!)。そして私の正しさを貫こうとし、自分の非は認めたくないとなると、屁理屈を並べてでもトラブルの原因は私ではなく夫にあると主張するだろう。


 「お帰りなさい。頼んだ食材、途中で買ってきてくれた?」
 「戸を開けた途端にそれだ。例えば『待ってた。一日どうだった?』くらい言ってくれてもいいだろう」
 「あなたさえ忘れっぽくなければ言わなくて済むのよ」
 「ちゃんと忘れずに買ってきました」
 「あ、そう。今日は、買ってきてくれたのね。だいたいが頼りないんだから」


 これでは「幸せのレシピ」には程遠いと言わざるを得ない。
 言い過ぎたことを認めないばかりか、なぜひどいことを言ったり、落ち着きを無くしてしまうのだろうか。それは自分の過ちや至らなさを他人のせいにする方が気が楽だからだ。「悪いのはあなたで私は悪くない」と。そんな単純な構図からどれだけ言い争いや喧嘩が生まれることか。まるで人生で最も重大な問題であるかのように、互いに相手が悪いと言い合ったり。内心「ダンスは一人では踊れない」と分かっているのに。どれだけ時間を無駄にしていることか。過ちは素直に認めて、お互いフェアに向き合えばよいものを。
 もっとも言うは易しでそう簡単に変われるものではない。自分自身のことが正しく見えていなければ、人間関係の問題の引き金となっている原因や、自分の可能性を狭めている原因を見つけることは極めて困難だ。弱さを認められなければ、成長できない。自分の過ちに目をつぶったり、抱えている問題や困難を他人のせいにすることで一時しのぎは可能かもしれない。でもそうした姿勢はいずれ自らを落胆と葛藤の悪循環に陥れ、結局は自分を傷つけることになりかねないのだ。


自分で決めつけてしまうことの代償
 自分を常に肯定的に評価し続けるようとすることは、常に自分に甘いものを与え続けるようなものだ。一時的に血糖値が上昇して満足感を味わえたとしても、低下とともに落ち込む。そして問題の原因を他人のせいにし続けることはできないことにようやく気付いた先には失意が待ち受けている。特別で、平均以上であり続けることなどできないのだ。結果は悲惨なことになる。鏡に映る自分を好きになれず(名実ともに)、湧いてくるのは羞恥心。最終的に自分の欠点や至らなさを認めるところまでたどり着くと、今度は自分に対して必要以上に辛く当たってしまう。「私にはできない。私は価値が無い」と自分を責めてしまう。素直になれても、そのような厳しい自責の念にかられるのであれば、真実から目を背けたくなるのも不思議ではない。例えば自分の体重と雑誌モデルの体重を比較したり、自分の預金残高と大金持ちの資産を比較した結果、明らかに自分をごまかせないと心が折れてしまうのだ。自信が揺らぎ、自分の可能性を疑い、希望さえ失せてしまう。そして一層、自分を責め始めるという悪循環に陥ってしまう。
 何とか気を持ち直せた場合でも、「これで十分」と思える基準を非現実的な高さに設定してしまいがちだ。「頭がよく、スタイルもよく、ファッションセンスに優れ、面白くて、仕事も順調で、セクシーであろう」と。精神状態の基準についても同じようなことがいえる。一時的には満足したとしても結局はまた他人のほうが優れて見えてしまう。行き着くところは深刻だ。毎日何百万人が、ただ普通に毎日を過ごすために薬を必要としている。私たちの周囲にも不安や心配、鬱に苦しむ人は少なくない。ほとんどの場合、人生の勝ち組に入っていないと感じた瞬間、自分でいろいろ勝手に決め込んでしまったり、自分を責め始めたりすることによるものだ。


もう一つの道
 ではどうすべきか?勝手に決め込んだり、自己評価することを止めることだ。自分を「良い」「悪い」などと決めつけず、素の自分を受け入れるのだ。やさしく、いたわる気持ちで自分を思いやる。親しい友人や、全くの他人に対してでさえ、そうするのと同じように。残念ながら自分に対して一番ひどい接し方をするのは他でもなく自分であることが多い。
 「自分思い(セルフコンパッション)」という概念に初めて接した瞬間から私の人生は変った、と言っても過言ではない。カリフォルニア州立大学バークレー校の人間開発(Human Development)博士課程最終年のことだった。論文の仕上げにかかっていたちょうどその時、私は最初の結婚に失敗して非常につらい日々を送っていた。当時の私は羞恥心と自己嫌悪に悩んでいた。少しは効果があるかもしれないと、近所の仏教センターで座禅のクラスに参加してみた。ロサンゼルス郊外で視野の開けた母に育てられたことも影響しているのだろうか、東洋の精神には子供のころから興味を持っていた。座禅に真剣に取り組んだことはなかったが。また東洋の精神と言っても、仏教哲学を正規に研究したというよりは、カリフォルニアで興ったニューエージ系が対象だった。シャロン・ザルツバーグの名著Lovingkindnessを読んだ後、私の人生は大きく変わったのだった。
 仏教僧がしばしば慈悲について語るのは知っていた。ただ他人に対するのと同様、自分に対する思いやりも重要だ、などとは考えたことがなかった。仏教では他人を本当に大切にするためには、まずは自分を大切にすべき、と教えている。他人には親切にする一方で、自分のことは決め込んだり批判したりしていると、不自然な境界を設けることになり、隔絶感や孤立感を味わうことになる。これは一致、絆、そして普遍的な愛を究極的なゴールとする、多くの宗教の教えにも反することになる。
 「失敗したり、苦しんでいる時に自分をいたわり、自分を思いやる?本当にそんなことしていいの?信じがたいな。『自分思い』が強すぎたら単に自己中心的な怠け者にならないかな」と、週ごとの仏教の集いに一緒に参加した新しいフィアンセのルーパートに驚きながら話したのを覚えている。その後もしばらくは腑に落ちなかった。でも次第に、社会的が受けれている自己批判というアプローチは、結局問題解決の役に立たず、かえって事態を悪化させるということが分かってきたのだ。自分にどれだけ辛く当たっても、自身の成長には結びつかなかった。むしろ自分がいかに要領を得ず、不安定であるかを意識するようになり、最も身近な人に八つ当たりしてうっ憤を晴らしていた。真実を直視したら自己嫌悪に陥るのではないかと恐れ、様々なことに対して素直になれなくなっていたのだ。
 ルーパートと私が気づいたことは、お互いが求めている愛情、理解、安心感も、二人の関係が与えてくれるのを待つだけでなく、私たちが私たち自身に与えることもできるのだ、ということだった。つまり私たちはお互いに与えることができるものを、さらに心の中に持っているともいえるのだ。私たちは「自分思い」という概念に感銘を受け、同じ年に挙げた結婚式では「何よりも、あなたが生き生きとして幸せな日々を過ごせるよう、あなたがあなた自身を思いやることができるよう、私も努力することを誓います」と宣誓したほどだ。
 博士課程修了後、さらに2年間、自尊心に関する研究で著名な研究者の下で研究を続けた。人が自分の価値をどのように見極めるのか、もっと知りたかったからだ。そこで心理学が「健全な精神」の基準としてきた自尊心というテーマから急速に離れて行っているのを感じた。自尊心の重要性を説く記事は数多く書かれてきたが、例えばナルシズム、自分への没頭、自分の正しさを主張することによる怒り、偏見、差別など、高い自尊心を持ち続けようと努力することのリスクが指摘され始めたのだ。
 私は「自分思い」こそが、むやみな自尊心の追求に代わる最適な「もう一つの道」だと気付いた。なぜなら「自分思い」は自尊心同様、自己批判から自分を守れる一方、自尊心とは異なり、完璧な人間であろうとしたり、他人より優れている必要が無くなるからだ。つまり、「自分思い」は自尊心と同じ効果が期待できる一方、副作用の心配が無いのだ。
 テキサス大学オースティン校で准教授として働き始めた際、落ち着いたら「自分思い」に関する研究をしようと決めていた。「自分思い」を学問的に定義したり、正規の研究テーマとしている人はいなかったが、私はこれがライフワークになると感じていた。
 「自分思い」とは何か?つまりどういうことなのか?「自分思い」を理解する最適な方法は類似経験、つまり「他人への思いやり」から学ぶことだ。思いやりは結局、他人に対してであれ、自分に対してであれ同じことなのだ。


他人に対する思いやり
 車で通勤中に渋滞に巻き込まれ、ホームレスの男性が車の窓拭きと引き換えにチップを求めてきたとしよう。それもかなり図々しく。「彼のおかげで信号が変わっても動けずに遅刻してしまうかもしれない。どうせ金をあげても酒かドラッグに消えてしまうだけだ。無視すれば放っておいてくれるかもしれない」などの考えが浮かんで来る。ところが放っておいてはもらえず、彼が窓を拭く間中、金を払うのは嫌だが払わないのも悪いというジレンマに陥り、終始彼に対する嫌悪感を抱き続けてしまう。
 その後のある日。前回と同じように通勤ラッシュの渋滞に巻き込まれ、同じ時間に同じ信号のところで、いつものバケツと窓拭きを持ったホームレスの男性に出くわす。だがなぜか今回は彼がいつもとは違って見える。嫌な奴である前に彼も人間なのだと気づく。彼の苦しみが少し分かるような気がしてくる。「どのように生活しているのか?ほとんどの人が彼を追い払うだろう。車と排気ガスに包まれて働いてもたいして稼げないに違いない。働いて金を稼ごうとしているのだ。常に人にイライラされるるのは辛いに違いない。どんな人生を歩んできたのだろう。どうしてホームレスに?」。彼を苦しむ一人の人間として捉えた瞬間、共感しはじめるのだ。無視するどころか、意外にも彼の人生がいかに困難に満ちているかを考える。彼の苦しみに心を動かされ、自分にできることはないか、などと思い始める。単なる情けではなく、真の思いやりから「神様の恵みがあるように。別の育ち方をしていたら、あるいは単に運が悪かったとしたら、自分も同じように必死に生きねばならなかっただろう。私たちは皆、いつ何があるかわからないのだから」と思うに違いない。
 ところがここで自分がホームレスになってしまったら、などと想像し始め、みすぼらしいホームレスの男性を見下し、恐れから心を閉ざしててしまう危険性もあるのだ。実際、多くの人はこの罠に陥りがちだ。だが閉ざされた心が幸せをもたらすことはなく、仕事や家庭のストレス解消にも役立たない。心が閉ざされたままでは自分の不安とも向き合うこともできなくなる。心を閉ざしてしまうと、つまりホームレスの男性より自分はまだましだ、などと考え始めると、物事は悪い方向にばかり行くことになる。
 不遇なホームレスの男性に対し、心を閉ざすことなく真の思いやりから行動したとする。どのような感じがするだろうか?悪い気はしないはずだ。心が開かれると、人とつながっていることが感じられ、生き生きと、今を生きていることを実感できるようになるのだ。
 ホームレスの男性が車の窓拭きをしているのは現金欲しさからではないとしたら?逆に本当に酒やドラッグを買うお金が欲しいだけだとしたら?それでも彼に対して思いやりの心を持つべきだろうか?こたえはイエスだ。自宅に招く必要はない。金も渡す必要はないかもしれない。単に笑顔を差し向けるか、金の代わりにサンドウィッチを差し出すという手もある。ホームレスの男性も私たち同様、例外なく思いやりを受ける価値があるのだ。思いやりは無垢な被害者に対してだけでなく、失敗や弱さ、過ちの結果苦しむ人にも向けられるべきものだ。失敗、弱さ、過ちーいずれも私たちが日常的に経験しているものばかりだ。
 他人思いであるためには苦しみを直視し、認識することが必要だ。そして苦しむ人のことを気にかけ、苦しみを和らげるためにできることはないか、と思うことだ。さらに思いやりとは、人間として当たり前の弱さや至らなさを認識することでもある。


自分に対する思いやり
 「自分思い」も要は同じだ。一旦立ち止まり、私たち自身の苦しみを認識することから始まる。苦しみの存在を認識しなければ前に進めない。時にはあまりの苦しみで、ほかに何も考える余裕が無い場合もある。ただ案外、自分が苦しんでいることに気付かないことも多いのだ。西洋文化には毅然としていることを良しとする伝統がある。文句を言わずに、前進するべきだと教えられているのだ。困難に遭遇してストレスが高まっても、自分の置かれている状況がいかに辛いものか、立ち止まって考えようとしない。
 苦しみが、自分が決め込んでしまったことに由来する場合、つまり他人にひどいことをしたことに対する自責の念や、パーティで馬鹿な発言をしてしまったなどの場合、それを苦しみとみなすことが特に難しい。例えば久しぶりに会った友人の大きなお腹を見て「赤ちゃんね?」と聞いたところ「そうではなくて。最近体重が少し・・」とこたえられて絶句、赤面したことがある。ところがそのような例は思いやりの対象とはなりにくい。結局私が大失敗したわけで、報いを受けても仕方ないのではないかと考えてしまう。でも失敗したのが家族や友人だったとしたら、報いを受けるべきだと考えるだろうか?そういうこともあるかもしれないが、あまりいい気はしないだろう。
 誰しも過ちは一度ならず犯すもの。それが人生というものだ。考えたところで仕方ないこともある。完璧で絶対に失敗せず、自分の思い通りの人生が送れるなどという契約を生まれる時にしたとでもいうのだろうか?「失礼。『一生、死ぬまで全て順調コース』に加入したはずですが。責任者を出してもらえますか?」―全く馬鹿げている。だが大半の人が、失敗や予期せぬ展開によって人生が狂ってしまったかのように振る舞うのだ。
 個々の成果や自立心が尊重される文化の中では、常に求める結果が出せないと、自分ばかりを責めてしまいがちだ。そして非が自分にあると感じると、思いやりの対象外にしてしまう。だが実際には思いやりを受ける資格の無い人間などいないのだ。私たちが地球で意識を持って生きる人間だというだけで、本来的に価値のある、いたわるべき存在なのだ。ダライラマは「人間は自ずと幸せを志向し、苦しみは避けようとする。皆、幸せを手に入れ、苦しみは取り除こうと努力するが、全ての人はそうする基本的な権利がある。基本的に、人間としての真の価値、という意味では誰しも皆平等だ」としている。これはアメリカの独立宣言の精神にも通じる考えだ。「以下の真実は自明である。人は全て平等に創られている。そして創造主によって命、自由、幸せを追求するという不可侵の権利を与えられている」。思いやるための権利を取得する必要はない。それは生まれながらに与えられた権利だからだ。私たちは人間であり、考えたり、感じたりする生き物で、苦しむより幸せでありたいわけで、「自分思い」は当然のことなのだ。
 だが多くの人は「自分思い」という概念には抵抗感を示す。自分を慰めるだけなのと何が違うのか?自分を甘やかすことをうまく言い換えているだけではないか?そうした疑問が明らかな誤りで、むしろ「自分思い」の本当の意味の真逆だということを、この本を通して示したいと思う。いずれ分かっていただけると思うが、「自分思い」とは現状を改め、健康で幸せな状態を求めようとする能動的な行為であって、受け身の概念ではない。「自分思い」とは、自分の問題が他人の問題よりも重要だということではなく、自身の問題も等しく重要で、きちんと取り組む必要がある、という意味だ。
 失敗や過ちで自分を責めるより、苦しんだ経験を利用して心を柔和に変化させることもできる。不満のもととなる非現実的な完璧主義は捨て、心を開いて本物の、しかも持続する満足感を得るべきなのだ。自分が必要とする思いやりを、必要な時に与えることによって。
 私と仲間の研究者による約10年におよぶ調査によると、「自分思い」は心の安定と満足感を得るための強力な武器となることがわかっている。人間として避けられない様々な経験を直視しながらも、自分自身に対して無条件の優しさと安らぎを与えることで、不安、マイナス思考、そして孤立感に起因する精神的崩壊を防止することができる。同時に「自分思い」は幸福感や楽観視といったプラス思考を育む。「自分思い」の追求は、苦難にあっても元気をもたらし、人生の美しさや豊かさを享受することを可能にする。かき乱された心が「自分思い」により癒されると、善悪も判断しやすくなり、幸せに近づくことができる。
 「自分思い」は終わりなき自己批判の嵐から自分を守り、安らかな非難場所を提供してくれる。ようやく「私は皆に負けていないか?私はこれでいいのか?」などという自責に終止符を打つことが可能となる。誰もが求める温かいいわたりや支えはすぐそこにあるのだ。自分の心の中から湧き上がる優しい気持ちを生かし、誰しもが持っている人間としての不完全さを認識することで、不安から解放され、自分が受け入れられていることを実感ながら、生き生きと生きることができるようになるのだ。
 「自分思い」はある意味で魔法のようだ。なぜなら苦しみを喜びに変えてしまう。タラ・ベネットゴールマンは著書の「心の錬金術:精神が心をいかに癒すことができるか」で錬金術を例えに、私たちがいたわる気持ちで苦しみと向かい合うことで、内面的な変化を起こすことが可能かを説いている。私たちが自分に対して思いやりを持って接する時、自分を責めるような自己批判も次第に弱まり、逆に安らかな、そして自分が受け入れられていることを実感できるような気持ちが湧きあがってくるに違いない。あたかも石炭からダイヤモンドが生まれかのように。


演習 1

自分自身、そして自分の人生とどう向き合っているか?


自分自身への対応にはどのような傾向がみられるか?
・ どのようなことに関して自己批判したり、自分で決め込んだりしているかー例えば外見、仕事、人間関係、子育てなど。
・ 自分の至らなさに気付いたり、失敗した際、自分に対してどのように語りかけているかー自分を責めるか、それとも理解を示し、いたわる気持ちで接するか?
・ 自己批判する傾向が強い自分を内心どう思うか?
・ 自分に対して厳しく接して成果はみられたか?やりがいが増したか?あるいは自信を失ったり、落ち込んだりしたのではないか?
・ もしあるがままの自分自身を受け入れることができたらどうだろうか?怖い気がするか?それとも希望を感じるか?その両方か?


人生の困難とどのように向かい合っているか?
・ 困難に直面した際、自分に対してどのように接しているか?自分が苦しんでいることには目を向けず、問題の解決に注力するか?それとも一旦立ち止まって自分をいたわるか?
・ 必要以上に想像を膨らませ、より問題を大きくしていないか?常にバランスの取れた見方をしているか?
・ 何かうまく行かなくなった時、他人に対して引け目を感じたり、孤立感を感じることはないか?それとも誰でも困難に直面するものだと考えるか?


 「自分思い」が足りない、と感じた人。すでにそのことで自分を責め始めていないだろうか。でもその必要は無い。競争の激しい社会の中で、不完全な人間であることを受け入れることがどれほど難しいことかを認識し、自分を思いやる気持ちを持つようにしてみる。私たちの文化は「自分思い」」を重要視するどころか、むしろその逆だ。どれほど頑張っても十分ということはない、と教えられている。そろそろ考え方を変える時だ。もっと「自分思い」になることは皆にとってよいことなのだ。そして今こそ、始めるべきだ。


 読者の皆さんにも心当たりがあるではないか?この本では常に自分のことを決め込んでしまうことがいかに有害かを理解してもらえる演習も含まれている。さらに「自分思い」のスキルを向上させ、習慣づけることで、自分自身とより健全に付き合いができるようになるはずだ。私が調査のために開発した基準を用いて「自分思い」のレベルを正確に測ることも可能で、私のウェブサイト<www.self-compassion.org>の「How Self-Compassionate Are You」というリンク(英語)をクリックして欲しい。質問に回答すると「自分思い」のレベルが計算されるようになっている。結果を控えておき、本を読み終わった時にレベルが上がったかどうか、もう一度測定してみて欲しい。

 常に自尊心を高く持ち続けることは難しく、人生の中で至らなかったり完璧ではないことが止むことはないだろう。だが「自分思い」を実践することは、必要な時に駆け込める安らぎの場を設けることになるだろう。好調の時も不調の時も、成功した時も大失敗した時も、「自分思い」の実践により前に、そしてより良い状況へと進むことができるだろう。自分を責める習慣を改めることは容易ではない。だが最終的にはリラックスして、人生をあるがままに生き、自分自身に対して心を開くことが求められているだけなのだ。思うより簡単で、人生を変えてくれるかもしれないのだ。